◆◆◆◆音楽の記(三)
Music Essay no.3. (200610)
音楽批評・橋本努
このページは、私の趣味で音楽作品を紹介していくというコーナーです。お気に入りの音楽をランダムに批評していきます。皆様からいろいろなコメントをお寄せいただけると嬉しいです。
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Joseph Kobom
Xylophone Music from
White Cliffs Media (
傑出したリズム感覚を誇る音楽大国といえば、アフリカのガーナ。そのガーナで、インドネシア生まれの木管楽器サイロフォーンを駆使した演奏が繰り広げられる。左右別々のリズムで管を叩くという技術から、複雑怪奇なリズムが生み出される。それがなんともいえない神秘的な空間構成となる。奏者は演奏中に、キース・ジャレットのように陶酔した声を上げるが、その声は自己の世界を築き上げた者のみが到達することのできるエクスタシーの証左であろう。サイロフォーンには、原始的な空間において自己を陶酔状態に持っていくような「陶酔的覚醒」の魅力がある。バリ島のガムラン演奏団とは違って、ガーナの奏者はひとり孤独に意識を離れて演奏に没頭していく。聴き手は身体の力を抜いて、どっぷりと浸るしかない。
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Frank Zappa
Jazz From Hell
RYKO 1986
1980年代の前半、日本ではYMOが一世風靡していた時代に、フランク・ザッパは驚異の電子音楽的世界を生み出していた。電子音のプログラミング可能性がいっきに広がりをみせた時代の、音楽技術の可能性を限界まで探究した結晶的作品である。それまで人間臭いロックを売り物にしてきたザッパは、ここでは冷血非情の悪魔となる。全編にわたって続く緊張感、散りばめられた奇怪音、フレーズの断片化とその異他的な節合、人間の演奏技術を超える高度なプログラム演奏、闇に広がる音の余韻……。既成の音楽を超えて、狂気がほとばしるような実験が繰り広げられる。しかもその実験には、究極の完成度が備わっている。7曲目ST.ETINNEのギター・ソロは、デーモンの英知だ。ザッパの音楽に不可能性はないのか。限りなき悪霊たちを呼び集めた、魔性の美学である。
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Herbert Remix
Secondhand Sounds (2CDs)
Peacefrog Records 2002
ニューヨークのCDショップ「ヴァージン」でこれを視聴して、リミックス音楽にもこれだけ耽美的な作品があるのかと驚いた。しかしその時の私はとりあえず買わずに帰宅して、一週間後に再び買い求めに行ったのであるが、すでに時遅しである。店のフロアからこのCDは消えていた。さらに悪いことに、私は本CDのタイトルと演奏者を忘れてしまい、ジャケットのイメージだけがぼんやりと頭に残るだけとなってしまった。あとになってから、かなり悔やんだことを思い出す。
それからずいぶんと時間が経って、日本に帰国した私は、駄目押しではあるが、タワーレコードにメールで問い合わせてみた。CDのジャケットの印象を、なんとか言葉で説明したのである。すると一週間後になって、「あなたのお探しのCDはこれこれです」という解答が返ってきた。日本のタワーレコードの情報捜査力、恐るべしである。
ハーバートの音楽は、微細な襞にこだわるノイズ音に、憂鬱な女性ヴォーカルの美声を加えてくる。耽美的である。
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Mino Cinelu
Mino Cinelu
Bluethumb Records 1999
ミノ・シネルの名は、ウェザーリポートに参加していたパーカッショニストとして有名であるかもしれない。だが彼の才能は、あらゆる既成の音楽を超えて、世界の大地に凛と立つ。虫の音や古典楽器の繊細な感受性を取り入れながらも、大胆かつメロディアスな構成でもって、正面からストレートな波動を投げかける。これはすでに、現代の古典と呼ぶにふさわしい記念碑的作品ではないか。演奏といいヴォーカルといい、これだけの才能に恵まれて、なおかつ自分の世界をワールドワイドに拡張することに成功した人を私は知らない。文化のグローバルな融合がもたらした、新たな芸術運動の到達点であろう。ミノ・シネルの芸術には、すべてを肯定しうるような抗いがたい魅力がある。
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Kurt Rosenwinkel
The Enemies of Energy
Verve 1999
現代ジャズの洗練された美学の一形態であろう。サックス、ギター、ピアノ、それぞれが一つ一つの音にこだわりをもちながら、それでいて全体の複雑で構成的な調和へと向かっていく。これほどの完成度を生み出すためには、作曲段階で各パートにかなり細やかな指示を与えるか、あるいは演奏家たちの関係を高めていく努力が相当に必要であったのではないか。クート・ローゼンヴィンケルの美学は、知性と詩情に訴える。壊れそうでいながら、しかし構成力の力強さがある。細部のこだわりを練り上げるその周到さ、感受性の繊細さ。それらが気になって、何度もていねいに聴き返してしまう1枚だ。
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Ry Cooder / Manuel Galbán
Mambo Sinuendo
Nonesuch/ Perro Verde 2003
晩年のライ・クーダーがすごいことをやってくれた。1950年代のキューバ音楽を再現する音作りで、まるでタイムスリップしたかのように、私たちを甘く怪しげな南国の哀愁に誘いこむ。演奏は2002年、キューバのハバナでの録音であるが、制作者・演奏家たちのこだわりは並大抵のものではない。いわば古楽の楽器や演奏技術を再現するかのように、キューバのレトロな楽器、音源、録音技術、等々を現代によみがえらせる。少し割れ気味のストラトキャスターの音、フラットなひずみを持った低音、4人がかりで叩くパーカッションの奥行き、シンバルやスネアドラムの抜け方、どれをとっても味わい深い。「マンボ・シヌエンド」という曲がとくに傑作だ。良き古きキューバ社会には、本当に音楽の魅力があふれているのだなと思う。
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Larry Coryell
Timeless
Savoy 2003
80年代のラリー・コリエル(g)は、ウェス・モンゴメリのギター奏法に回帰して、スタンダードなトリオ作品をたくさん演奏していた。当時はしかし、こうした演奏は商業的には受けなかったのであろう。ようやく21世紀になってから、そのライブ演奏がCD化されることになった。これがなかなか味わい深い。80年代の私は、実はラリー・コリエルに大いに影響されてきたとはいえ、こうした演奏を知らないですごしてきたのだから恥ずかしい。80年代というのは、自分が経験していたよりも、もっと豊かな文化だったことを改めて発見する。それをいまさら思い出として取り戻すかのように、私はこのアルバムを大切に聴いている。
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Joyce
Music Inside
Verve Forecast 1990→2005
60年代後半から70年代にかけてのジョイスは、ブラジルでニューミュージック系のボサノヴァを歌うチャーミングな女性シンガーであった。ところが80年代に円熟した才能をみせた彼女は、その成果を携えてアメリカの音楽シーンに登場する。1990年、強力な共演者たちに恵まれて、ニューヨークで録音したのがこのアルバム。メロディアスな曲に、爽やかなヴォーカルとギターの涼風で、例えばそれは、北海道の夏のおだやかな、夕暮れの風景などによく似合う。Homeland of mine, Mother of my destiny, That’s my music to me…音楽に生き、音楽に運命をゆだねる。そんなジョイスの歌声を、私はよく口ずさむことがある。ビートルズの「ヘルプ」を編曲した作品も、静謐で悲しい奥行きがある。
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Patricia Barber
Companion
Blue Note/ Premonition 1999
シカゴのインテリ・アンダーグラウンド・ライブハウスに鳴り響く、気だるいディレッタントなリズムに酔いしれる音楽。現代詩をブルースの囁きに乗せてみると、かくもハイセンスな音楽が生まれるのだから不思議である。シンガーのバーバーは、乾いた声で「狂おしき詩情」というものを粋に描いてみせる。それが抜群の感性なのだ。An altered scale to slap and tickle, a dilettante’s muse, a passing chord to woo the flatted five, “Blue ’n green” to inspire a tired guitarist who dares to reharmonize…音を削いで削いで、粋な光を放つものだけを、静かに壊さないように集めていくという過程がまずあって、そして今度は、それを地下でグルーヴするように演奏する。するとそこに無限の広がりが生まれて、地下にこそ「深き本質」があるというような気にさせてくれる。
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John Beasley
A Change of Heart
Windom Hill Jazz 1993
これは掘り出し物かもしれない。ロニー・ジョーダンのスタイルに近いメロディアスな曲の数々が、洗練された構成と高度な演奏によってずらりと並んだ逸品だ。リーダーのビアズリー(p)はかなりの才人である。しかし彼のその後の音楽活動は不発であったようで、いまでは埋もれてしまっている。90年代前半といえば、フュージョン音楽が成熟してメロディが一段と複雑になっていく一方、アッシド・ジャズのような音楽がクラブ系に流れるという、これまたクラブサウンドの成熟があった。そんな時代のなかで、群を抜いてすぐれたサウンドを生み出している。時代とともに忘れられているが、友人と会話を楽しみながら聴きたくなる一枚だ。ベースはジョン・パティトゥッチ。
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Wayne Krantz
Greenwich Mean
www.waynekrantz.com 1999
およそエレキギターに惚れる人であれば、誰もがこのウェーン・クランツのニューヨーク・ライブに痺れてしまうのではないか。私はもう、痺れた、唸った、卒倒した。
エレキギターが楽器として具える可能性として、その最もストレートな特徴を挙げてみると、それは「鳴き」「刻み」「怒涛」の三つであるだろう。そしてこの三つを最大限に引き出そうと試みたのが、このアルバムなのだ。チョーキングやスライドやワウワウによる「鳴き」、ベースとドラムのあいだをランダムに走る「刻み」、そしてパワフルな超絶ソロによる「怒濤」のノリ。ウェーンの演奏は、どれもため息が出るほどすばらしい。エレキギターの特性そのものが与えてくれる表現の可能性を、憑かれてしまったかのように次々と探究する。そのあまりにも耽美的にほとばしる彼の肉体が、極限状態から一歩も後退しないで突き進んでいく。エレキの魅力のすべてを凝縮した、強力なサウンドだ。
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坂本龍一
千のナイフThousand Knives
Betterdays
幽玄な現代音楽の世界を、当時最新のエレクトロニクスを駆使して描いてみせた「革新」の記念碑。音作りの実験性といい、メロディの斬新さといい、どこまでも時代の最先端を探究しながら、そこに完成された音楽を紡ぎ出していく。その探究心と可能性に私はとても惹かれ、心の奥でこのアルバムを密かに飾った。
「千のナイフ」を私がはじめて聴いたのは、おそらく、中学一年生の頃であったように思う。YMOの影響であった。「千のナイフ」の東洋的なメロディとリズムに乗せられて、当時の私は、どこまでも先に行けそうな気がしたのだが、いま聴きなおしてみると、「幻想的な竹林」の美しさを表現した点がやはり光る。私の「理由なき思い入れ」の1枚。
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John Coltrane
My Favorite Things
1961
名盤中の名盤といわれるジャズ。私は大学生の頃にこれを聴きこんで、コルトレーンの世界にどっぷり耽った。その頃はかなり愛聴したので、当時の思い出がいっぱい詰まっている。例えば、秋にこそ芽生えるような、ため息とともに開く感受性というものがあるだろう。コルトレーンは、そうした甘い感受性を掴み取りながら、夜の街の風景へと溶け込んでいくようだ。殺伐としたコンクリートの道と壁にも、スポットライトの下を乾いた風が通り抜け、そんな風に吹かれて街を歩く人々の心には、豊かな美意識が温かく宿っている。その美意識こそ、表現すべき唯一のものであり、美の絶対的な場面であるのではないか。このアルバムはまた、ブラックからポロックにいたるまでの抽象絵画のスタイルが、詩情溢れる音楽に生まれ変わったような趣きもある。ごちゃごちゃした思考がそのまますべて音に対象化され、美的に昇華されていく一時だ。
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Leo Kottke
One Guitar, No Vocals
Windham Hills 1999
この人は歌わないほうが売れる、ということでこのタイトルになったのではないか。ブルースやアメリカン・カントリーを故郷としながらも、そこから転じてウィンダムヒル系のクリアな音楽へと脱皮したレオ・コッケは、ここに超絶かつ幻想的な珠玉のギター・サウンドを残している。レオ・コッケのライブアルバムは、もっと躍動感があって、観客との一体感がある。歌も野性的で力強く、魅力的である。けれどもギター一本で表現の可能性を追求したこのアルバムは、部屋で篭ってギターを奏でる人のためのトリビュート作品だ。抑制の効いた表現のなかに、フォークギターの弦の特性がもつ「味わい」が、ストレートに伝わってくる。弦を押さえるとか、離すとか、あるいはスライドするといった、基本的な奏法に現れるギター特有の波長やノイズにこそ、ギターの面白さの原点があるのだろう。
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Michael Hedge
Beyond Boundaries
Windham Hills 2001
ウィンダムヒルというレコード会社は、1980年代初頭にジョージ・ウィンストンというピアニストの作品をたくさん出して有名になってから、以来、ナルシスティックでメロディアスなピアノやギターの作品を世に送りだしてきた。最初はこちらが恥ずかしくなるようなナルシシズムを売り物にしていたけれども、あれから二〇年が経って、その豊饒な部分だけを取り出して聞いてみると、これがまた抗いがたく美しい。マイケル・ヘッジのギター、そのベスト版を聴いてみると、雄大な丘の風景を駆け抜けるようなテーマが一貫して流れている。風景に託された悲しみや感性は、例えば、春の息吹であったり、夕暮れの野にそよぐ風であったりするのだが、それをメロディにもう一度写し取ってみせるのがヘッジだ。ヘッジは死の悲しさをも風景に託そうとする。その不可能性がかえって心を打つ。
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Sarah Chang (v) / Simon Rattle (c) / Berliner Philharmoniker
Shostakovich, Violin
Concerto, No.1. / Prokofiev, Violin Concerto No.1.
EMI classics 2006
すでに現代を代表する決定的な演奏であろう。神かがるというべきか、恐るべき悪魔に取り憑かれているというべきか、サラ・チャンとサイモン・ラトルという、最高の演奏家と指揮者を得たベルリンフィルによる、ショスタコーヴィチのバイオリン・コンチェルト。とにかくお試しあれ!ショスタコーヴィチの作品はどれも、演奏家が自己の極限へ向けて挑戦することを要求するような、それほどまでに苛酷な芸術である。ところがサラ・チャンは、ショスタコーヴィチの要求する演奏水準を、さらに超えた到達地点にすでに立ってしまっている。そしてその地点から、まるで手玉に取るかのようにショスタコーヴィチを奏でているのだから、すごい。かなりの超絶技巧まで、余裕の演奏で我がものとしている。これは怪物の演奏ではないだろうか。ショスタコーヴィチよりもサラ・チャンのほうが恐ろしくみえてくる。
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渡辺香津美
おやつA 遠足
domo, Polydor 1995
日本を代表するギタリスト渡辺香津美の演奏のなかで、一見すると手抜きのタイトルをもつこのアルバムこそ最高傑作ではないか。70年代と80年代を駆け抜けるように活躍した香津美は、90年代に日本の民謡とアジアの伝統音楽へと向かった。バングラディッシュ、インドネシア、中国、韓国、そして日本の民謡演奏家たちを、それぞれの地へと訪れ、デュオ・セッションを試みたのがこの「遠足」である。セッションはいずれも緊張感があって、生ギターの新たな可能性を切り開いた最高の芸術作品。伝統的な曲に加えて、香津美のオリジナルな作品も多い。例えばサムルノリのリーダー、キム・ドクスとのセッションでは、まるで韓国の伝統音楽を現代によみがえらせるようなオリジナル・ギター曲があり、その才能に脱帽してしまう。「こきりこ節」のギター・アレンジもかっこよすぎだ!
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Joe Chindamo Trio
The Joy of Standards
Vol.2
澤野工房 2002
隠されたジャズの名盤を発掘することで名高い澤野工房。その澤野工房が送り出すCDのなかで、オーストラリアのメルボルンで活躍するジョー・チンダモ・トリオは群を抜いて素晴らしい。これだけ生き生きと、しかも演奏の技術に恵まれたトリオであれば、世界の頂点に立ってもおかしくないだろう。ところがジャズの世界では情報が分断され、メルボルンで流行るものが世界的に流行らない。澤野工房が注目しなければ、このトリオは日本に届かなかったであろう。チンダモ・トリオは、スタンダード作品を極める演奏技術をもちながら、若い頃にただ一度しか訪れないような、「生命の瑞々しい躍動感」というものをここに実現してしまっている。これこそジャズの完成ではないだろうか。
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Tatjana Vassilieva
Solo: Kodaly, Ysaye, Tcherepnine, Cassado
www.tatjanavassilieva.com 2005
西シベリアの首都、ノボシビルスクに生まれたタジャナは、モスクワでダニール・シャフランに学び、18歳でドイツに渡ってからは、クレメールやバシュメットなどと一緒に演奏する機会に恵まれた。その後はベルリン・フィルのカメラータに迎えられ、数々の賞に輝いてきた。彼女のチェロ独奏は、驚くほど力強く、生の厳しさをつきつけるような爆弾だ。その表現力は肝を抜かれるほど圧倒的である。とくにコダーイのチェロ・ソロのためのソナタは、スタンダードとされるシュタルケルの演奏を遥かに凌いでいる。渾身かつ迫真の絶対的な芸術であろう。荒野に荒れ狂う魂の、狂おしき狂気の乱舞。これだけの厳しさを極限にまで突き詰めて生きてしまった人が、ここにいる。この人を見てほしい!
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Joe Sample
Old Places, Old Faces
Warner Bros 1996
このアルバムはジョー・サンプルの作品のなかでも別格、いや、フュージョンというジャンルのなかでも別格の一枚だ。ニューヨークのブルックリンの街角で、黒人たちの日常生活に流れる豊かな感受性を表現したような作品。そこには、冬の乾いた空気が弱い光のなかを静かにそよぎ、一歩一歩踏みしめるような足取りで街角を通り過ぎていくような楽しさがある。どれも粋なメロディの曲ばかりで、私はいつも口ずさんでしまうのだが、黒人とブルックリンと私の感性が、妙に共鳴してしまう。何か特別な縁でもあるのだろう。個人的に私は、こういう曲を作曲したいと思う。創造の追体験が訪れて、それだけで密かに嬉しい気持ちになる。